あるフロントスタッフの出来事
あれは確か5月の端午の節句だった。夜勤シフトが終わりに近づいた朝9:00、ひと組の外国人の夫婦がフロントに近づいてきた。フロントまで来るとジョージが肩を落としながら私に訴えかけてきた。
「私たちは昨晩、カナダから日本に着いたばかりなんだけど、今日はこれから東京見物に出かけるはずだったんだ。ただ予定していた日本人ガイドからさっき『そちらに向かう途中にケガをしてしまい、急で申し訳ないがガイドができない』と連絡が入ってね。途方に暮れているんだよ。」
「そりゃあ大変ですね。ちなみにどちらに行く予定だったんですか?」
「浅草と原宿と渋谷だよ。ただ日本語も分からない上に、行き方も全く分からないんだ。」
よくよく話を聞くと、ガイド内容としては、ただ浅草寺や明治神宮内を案内したり有名な通りを歩く程度のものだった。
「この程度でしたら、私にも案内できそうですね」
これが余計なひと言になってしまった。
「君はもうすぐ仕事終わるんだろ?ぜひ案内をしてくれないかな?頼むよ!」
とジョージと妻のエマがすがるような目つきで訴えてきた。
「いやあ、それはちょっと…」
最初は正直腰が引けた。夜勤明けで疲れているところにきて、そもそも通訳案内士(※)の資格を持っていないのに観光ガイドをしてもいいものかと思ったからである。また何か事故があっても責任はとれないし…。ただ目の前にいる夫婦は楽しみにしていた日本の観光が台無しになりそうで落胆している。『困っている人をサービスマンとして見過ごすことはできない。よし!ここはひと肌脱ぐか』とすぐに気持ちが切り替わった。
「分かりました。私が案内しましょう!ただ観光ガイドということになると資格の問題があるので、ひとつ提案があります。今からお客様とホテル従業員という関係ではなく、友達になりましょう!友達なら日本に不慣れな海外の友達を案内することは自然な流れですよね。」
「え!本当にいいのか?無理言ってすまない。助かったよ」
ジョージとエマの顔がパッと明るくなったのを見て、がぜんやる気が出てきた。
シフトが終わる10:00まで夫婦にはロビーで待ってもらい、さっそく浅草に向かった。浅草寺に着いてみると、偶然にも「宝の舞」の祭事が行われており、仲見世を漁師の衣装をまとった宝童子が宝船を曳いて練り歩いていた。夫婦は「Wonderful!」と喜び、しきりにスマホで写真を撮っていた。まさに日本らしいところを見せられて私も満足だった。
私は都内に住んでいるが、若い時のように繁華街に繰り出すことが少なくなったので、表参道の様変わりには驚いた。外国人だらけである。有名な回転すし屋に入ったが、座っているのはほとんど外国人だ。確かに外国人には珍しいサービスシステムなのだろう。
明治神宮の参道を歩きながら「都心にこんなに静かで自然に囲まれた場所があるんだね」とジョージは感動しきりだった。本殿に着いてみるとこちらも運よく神前挙式が行われており、式を終えて披露宴会場に向かう花嫁の白無垢と綿帽子の着物姿の美しさにエマは心を奪われたようだった。ガイドのし甲斐があるな。俺ってなんてラッキーなんだろうと思った。
観光も終わりホテルに戻ると、ジョージが私の手を力強く握ってきた。
「今日は本当にありがとう。こんな素晴らしい観光ができたのは君のおかげだ!いつかカナダに来る機会があったらぜひ連絡をしてくれ。今度は私が案内するよ」
と言ってくれた。社交辞令ではなさそうだ。
ようやく帰路に着くと夜勤明けで一日中歩き回っただけに疲れがドッと出てきた。これだけのことをしても友達としての観光案内だから当然無報酬である。ただ何とも言えない満足感が身体を包んでいた。夫婦の楽し気な笑顔がまだ目に浮かぶ。
思いもよらず都内を案内することになったが、日本の歴史や地理の知識が少ない自分に気づいたり、都内の新しい魅力の発見があった。たまには都内を散策して見るべきだなと感じた。
後日、後輩がはしゃいだ様子で話しかけてきた。
「先輩がこの前、観光案内したと思われる人が、この世界規模の旅行サイトにコメントを書き込んでいますよ。ベタ褒めじゃないですか!」
あちゃー、「このことは内密にね」とジョージに念を押したのに、よりによってこんな有名な旅行サイトに書き込んじゃったんだな。職場の反応が気になったが口々に「さすがですね!」と持ち上げてくれたので何だか照れ臭かった。気になっていた支配人からも特にお咎めはなかった。
今回、たった一組だが日本のファンを増やせたことにとても満足をしている。私にとっても忘れ難い体験となった。ただ残念なことに、カナダへの渡航はまだ果たせていない。
注:事実をもとに書いていますが、登場する人物の名前は架空のものです。
※:通訳案内士とは、観光庁が実施する国家試験であり、試験に合格して通訳案内士として登録した者のみが、観光客に対して外国語通訳及び観光案内を行って報酬を得ることができる。現行、無資格者が報酬を得て外国人の観光案内業務を行うことはできない。ただし無償で行うボランティアガイドは、現行でも無資格で問題ない。