ベテランホテルマン在りし日の事件簿 バレーサービス編
新入社員時代、ベルボーイをやっていた時のことです。
ある日、先輩のベルボーイ安藤(仮名)がアシスタントマネージャーとともに緊張した面持ちでロビーから玄関へと急いで出て行く姿を目撃しました。なんとお客様の車を駐車場に移す際、他の車にぶつけてしまったのです。そのお客様は歌舞伎界の御曹司で売り出し中の若手俳優K様。車は当時日本に3台しかないロールスロイス、ぶつけた相手はベンツと、嘘のような真(まこと)の話でした。
当時日本では車が普及し始め、高級ホテルではバレーサービスと称してホテルの玄関から駐車場に車を運ぶサービスを売りにしておりました。しかし、私の勤務していたホテルではバレーサービスを行っておらず、玄関前に用意した広い平面駐車場への出入りはお客様ご自身でやっていただく決まりとなっていました。
事故を起こした安藤は本来ベルボーイでしたが、その日はドアマンのヘルプをしていました。安藤はホテルの玄関にロールスロイスが入ってきたのですぐにK様だと気づきました。いつもは玄関前を通り駐車場に直接入るロールスロイスが玄関前に停車したので近づいてみると、助手席に売り出し中の女優M様が乗っていました。安藤は素早く助手席側に回り、開いたドアからM様を後続車に注意しながらホテル入口の前に誘導しました。その時すでにK様は運転席から降りていて、安藤が近づくと「たのむよ」と言ってキーを差し出しました。安藤は一瞬躊躇しましたが、即座にK様の気持ちをくみ取って「自分でこの車を運転し、駐車場に停めて来よう」と決断し、キーを受け取りました。それまでK様は自分の車に誰一人触ることさえ許さなかったからです。そして・・・事故を起してしまったのでした。
K様とベンツの所有者に対してホテルがどのような対処したか記憶は定かでありませんが、安藤が厳重注意を受けたことは定かです。ホテルの決まりごとを破り、あげくの果てにK様やベンツの所有者のみならずホテルにまで迷惑をかけたのですからお叱りを受けるのは当然です。しかし、K様の気持ちを察し駐車場に移すべしと、とっさに下した判断、その判断は間違いだったのでしょうか?ホテルのサービスマニュアルはお客様のためを原則としながらも、ホテルの構造上やコンセプトから決められたものがあります。したがってお客様第一を考えた時、時と場合によってはサービスマニュアルを破る判断と決断が必要となります。そしてそれが成功した時、お客様が大満足されることが多くあります。当時ロールスロイスは日本の工場では修理できず、船便でイギリスに送って修理したためK様の手元に戻るまで3ヶ月かかりました。大切な愛車を傷つけられ、3ヶ月もの間愛車に乗ることができなかったK様でしたが、このホテルを生涯利用し続けたことを思うと、当時の安藤の判断、決断は間違っていなかったと思えます。